【ネタバレ感想】『レジェンド、栄光のサッカー人生』ブラジルに奇跡を起こしたスーパースターの軌跡

こんにちは、つけものなすです。

今回は、W杯を3度制覇し、サッカーの王様に迫るドキュメンタリー『ペレ: レジェンド、栄光のサッカー人生』(21年)について書きたいと思います。

サッカー選手としてのペレの生涯を知ることができます。

レジェンド、栄光のサッカー人生

サッカー少年

『ペレ: レジェンド、栄光のサッカー人生』(原題:Pelé)は、2021年2月23日に配信開始したNetflixオリジナル・ドキュメンタリーです。上映時間は1時間48分。監督はベン・ニコラス、 デイビット・トリホーン。

ペレ(本名:エドソン・アランチス・ド・ナシメント)は、1940年10月23日に生まれのアフリカ系ブラジル人です。父親はサッカー選手のドンジーニョ(本名:ジョアン・ラモス・ド・ナシメント)。幼い頃からサッカーに夢中で、学校の帰りには毎日サッカーをする生活を送っていました。父親のようなサッカー選手になることを夢見ていました。

父親は怪我に加え給料も安く生活は貧しかったため、ペレは家計を支えるために靴磨きの仕事もしていました。自分が有名人になると思いましたかと聞かれると、ペレは「いいやそう思わない。生い立ちが自分を謙虚にさせた。自分が人より優れているとは思ったことがない」と謙虚に話します。

1954年、地元のパウルACに入団し、父親の友人である元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリトに指導してもらいます。サッカー選手になるために両親を説得し、1956年にサントスに入団します。

サントス所属のペペは、入団テストを受けるペレについて「テストを受けに来た若者はみんな下手だったが、ペレの才能は別格だった」と当時を振り返ります。サッカー選手としての才能を開花させたペレは、1958年のW杯スウェーデン大会に招集され、背番号10番のブラジル代表選手として出場します(背番号10番はペレをきっかけに、後にエースナンバーとなります)。

当時のブラジルは、優勝するには程遠いと言われていました。17歳のペレは「プレーするには未熟で若すぎると」と記者から非難されていましたが、準々決勝のウェールズ戦で華麗なシュートを決め、ワールドカップ史上最年少での得点となり、1-0でウェールズを破り、準決勝進出を果たします。

準決勝のフランス戦では、ハットトリックを決め、5-2でフランスを破り、決勝進出を果たします。この勢いで優勝を目指したいのですが、ブラジルには過去のトラウマである「ある悲劇」がありました。

 

マラカナンの悲劇

1950年にブラジルで開催されたW杯では、ブラジルは優勝候補と言われていましたが、決勝リーグの第3戦でウルグアイに1-2で敗れました。これはマラカナンの悲劇(サッカースタジアムのエスタジオ・ド・マラカナンで試合が行われたため)と言われています。悲しむ父親にペレは「悲しまないで、いつか僕が優勝させる」と慰めたそうです。ブラジルは、優勝候補と言われるも結果が出ず、再び悲劇が起こるのではと国民は不安に思います。

二度と悲劇は起こさない。決勝のスウェーデン戦では、先制点を許してしまい、国民はまたあの悲劇が起こるのかと不安に思いますが、ペレの同点のゴールを決めそのまま勢いづき、5-2でスウェーデンを破り、W杯初優勝を果たします。

 

スーパースター

ペレは大会が終わり帰国すると、王族並みの待遇を受け、国を代表するブラジルのシンボルとなります。ブラジルのミュージシャンであるジルベルト・ジルは「黒人や白人 他人種からもブラジルの劣等感からの解放を象徴する存在になった」、政治家のベネディタ・ダ・シルバは「ファヴェーラ(スラムや貧民街を指す言葉)の貧しい子たちの憧れの的だ」と話します。ペレは当時の状況について「どこに行っても追っかけがいて、慣れるのに時間がかかった」と話します。

サントスは小さいクラブでしたが、ペレの入団で一変しました。ペレは世界中から賞賛され、世界最高の選手だと評価されるほどです。21歳の時には、1957年から1961年の間で355得点を獲得します。この得点数は、一流選手が引退間際に記録する数字に値します。

 

W杯チリ大会

1962年に開催されたW杯チリ大会は、ペレの大活躍が期待されていましたが、チェコスロバキア戦で太股の筋肉を痛め戦線を離脱します。ペレにとって初めての怪我です。主戦力を失ったブラジルでしたが、ガリンシャ(本名:マノエウ・フランシスコ・ドス・サントス)らの活躍でW杯に二連覇を成し遂げます。

再び優勝したブラジルは、国全体でお祭り騒ぎとなり、元ブラジル大統領(34代)のフェルナンド・エンリケ・カルドーゾは、「先進国としてのブラジルも誕生した。後進国の時代は終わり、産業、効率、文化的に発展した」と称賛します。ペレの名前が入った商品(カフェペレなど)は爆売れするなど、フィーバー状態です。

その後、ブラジルはサッカーと共に発展していくと同時に激動の時代を歩んでいきます。

 

ネタバレ感想

ネタバレ注意
ここから先は物語の結末にも触れているのでネタバレ注意です。

独裁政権

1964年、クーデターによりジョアン・ゴラール政権が崩壊します。カステロ・ブランコ将軍が大統領に就任すると、国民は猛反対するものの、軍事独裁政権が到来します。ペレは「ある政党に参加するよう話がきたが、政治に関わるつもりはない。人生の一番はサッカーだ。政治に使う時間はない」と話します。

 

結婚

1966年、サントスで知り合った白人女性のローズと結婚し、一男二女に恵まれますが、1978年に離婚しました。当時の夫婦のインタビューの映像を見ると、二人は幸せそうに見えませんでした。ペレはサッカー以外の仕事も増え、世界中を飛び回ることが多くなり、夫婦関係が上手くいきませんでした。

「不倫は何度かした」とハッキリ言うところがスーパースターだなと思いました。しかも、不倫相手の子供ともしていたのは驚きました。

1994年、ゴスペル歌手のアシリア・セイシャス・レモスと再婚し、1996年に双子(1男1女)に恵まれましたが、2014年に離婚しました。その後、2016年に日系ブラジル人のマルシア・アオキと再婚しました。ペレの再婚時の年齢は75歳です。

 

W杯イングランド大会

1996年に開催されたW杯イングランド大会は、ペレは3連覇のプレッシャーと足の怪我を抱えていました。3連覇を達成したら引退しようとも考えていました。

ブラジルの初戦の相手はブルガリア。ブルガリアはペレを執拗にマークし、何度も押し倒されるものの何とか勝利します。

第二戦の相手はハンガリー。初戦で負傷したペレは温存することになり、ペレが欠如したブラジルは、1-3で敗れてしまいます。

第三戦の相手はポルトガル。ペレは審判の酷い判定のせいで膝を負傷してしまい、当時のルールでは選手交代は認められていなかったため、負傷退場となり、ブラジルは10人で戦うことになります。結果は1-2で敗れ予選敗退となります。3連覇を逃してしまいます。

ブラジル代表のチームドクターであるヒルトン・ゴスリングは、「この8日間で出た怪我人は、この8年で出る数よりも多かった」と話します。監督や選手の自宅は暴徒化したファンの襲撃を受ける事態に。ペレはW杯には二度と出ないと決め、趣味程度にサッカーを続けることを決めます。

 

激化する独裁政権

一方、ブラジル国内では窮乏化が進み、1968年に最悪の悪法とも呼ばれる軍政令第5条が発令されます。この発令により、政府は反政府活動家たちからの脅威に対抗できるようになり、武力で国全体を抑えようとします。

ブラジル史上最悪の独裁者と呼ばれるブランコ将軍は、毎週日曜日にサッカーを観戦する姿が話題となり、国民と一緒にサッカーに熱狂している「良い人」を演じています。

3年後、ペレはブラジリア(ブラジルの首都)でブランコ大統領と対面します。ペレに対して国民は批判しました。元ブラジル代表のパウロ・セーザル・リマは、「白人に媚びる黒人にしか見えなかった」とペレの振る舞いについて話します。

独裁政権が激化し、国民の希望は1970年のW杯しかありませんでした。

 

W杯メキシコ大会

W杯で優勝することは政府の使命となり、代表選手のテクニカルスタッフは、ほとんどが軍の関係者となりました。その頃のスローガンは「ブラジルを愛せ、止められない国」。政府はペレに代表復帰を望み、会合などに誘いました。ペレは政府に言われたからではなく、自分のために復帰することを決めます。

ブラジル代表の監督であるジョアン・サルダーニャは、選手に厳しく、選手の提案などの話に聞く耳を持たず、まるで独裁者でした。サルダーニャはペレと練習中に揉め、記者に「ペレの視力検査の結果が悪い」と作り話をして、代表から外そうとします。

政府はペレを代表に入れるようサルダーニャに言いますが、サルダーニャは納得がいかず、政府が干渉していることを記者の前で暴露し、政府はサルダーニャを解任する事態になります。新監督には、1958年のスウェーデン大会でペレとプレーしたマリオ・ザガロが抜擢されます。

1970年に開催されたW杯メキシコ大会は、29歳のペレは4度目のW杯です。初戦のチェコスロバキア戦は4-1で勝利し、続く第二戦の前大会の優勝国イングランド戦は1-0で勝利し、決勝進出を果たします。イングランド代表監督のアルフ・ラムジーは、ペレについて「全く衰えを感じない。彼の判断力は唯一無二」と評します。

準々決勝のペルー戦は4-2で勝利し、準決勝の相手は1950年に1-2で敗れたウルグアイです。20年ぶりの再戦となります。先制点を許してしまいますが、3-1まで巻き返し、ついに決勝進出を果たします。

決勝の相手はイタリアです。ブラジルは先制点を入れますが、戦後のW杯以降に先制点を決めたチームは負けるというジンクスがありました。1954年W杯スイス大会の西ドイツ対ハンガリーでは、ハンガリーが先制点を入れるも2-3で敗れました。1958年W杯スウェーデン大会のブラジル対スウェーデンでは、スウェーデンが先制点を入れるも2-5で敗れました。

しかし、今のブラジルにはそのようなジンクスは通用しません。ブラジルは続々と追加点を決め、4-1で大勝し、三度目のW杯優勝を果たします。これは「ブラジルの奇跡」と呼ばれ、ブラジルの高度経済成長期と重なり、国全体が高揚感と祝祭ムードに包まれます。

ブラジルの独裁政権は1985年まで続きますが、三度目の優勝が無ければ、事態はさらに悪化していたように思えます。

その後、ペレは1971年に30歳で代表を引退し、アメリカにサッカーを普及させる活動に専念しました。現役時代は、1367試合で1283ゴールを記録し、W杯を3回優勝した唯一の選手となりました。

 

まとめ

激動の時代を歩み、苦悩が伝わってくるドキュメンタリーでした。インタビューを見ると、ものすごい謙虚さが伝わり、ペレのことがもっと好きになりました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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